守山城址

築城年不明。最初は藤原系の田村氏が居城としていた。後小山義政の乱の際、義政の遺児を保護した田村氏は鎌倉公方方に敗れ衰退し、平姓田村氏の居城となった。その後、蒲生氏の家臣・田丸氏→上杉家臣・本庄氏・竹俣氏らが城主となり元和の一国一城令によって廃城となった。

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撮影時は、小十郎坦や、麓山神社を参った日と同日。これらがあまりに住居から近かった為、もう一個攻めたい!と矢が刺さった場所。ここも麓山神社と同じく、入り口に迷い、二三回国道を往復している。入ったら、ホント小学校の横で、ほんわかしてしまった。賽銭箱の家紋が見たことない紋だったので、気になってパソでググったら、水戸藩の松平氏の物だった事が判明。
ちなみに神社の位置が本丸のあった場所で、手前が二の丸、小学校のある場所が三の丸のあった場所と言われています。

守山城址1守山城址2守山城址3守山城址4守山城址5守山城址6守山城址7守山城址8守山城址9守山城址10守山城址11










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山王山陣場(現日吉神社)

本格的に県内の遺跡・遺構を探索するきっかけになった所。探索したのは7月の上旬。
徒歩で10分、車でも三分くらいな場所なんですよ。転居して、三年目にして、郡山合戦の本陣がこんな近くに有ったとは知らなんだ(こちらのは前半、後半は麓山神社に移りましたが)。
まさか、無意識に通ってたコンビニの曲がり角の奥の神社に伊達の家臣の碑が祀られてるとは。
買い物来たふりしてコンビニの駐車場に停めて、いざ探索です。
ちなみに北側の鳥居の方から入って、東側の鳥居から出ました。一枚目の画像が若干ブレ気味になってて、スイマセン。

こちらの神社はちなみに近江国の日吉神社を分祀したものだそうだ。
思ったより広い敷地内に天満宮や稲荷神社等が置かれてるが、期間的に見れない場所も有った。
当時は前調べもなく、とりあえず観に行ってみようという意気込みだったので、おさめてこない場所も有ったかと思う。
肥前の碑を撮ろうとして、石に反射して自分まで写ってしまったのはご愛嬌という事で。
あと個人的に狛犬や、獅子ではなく、神猿像を祀ってるのが面白いと思った(こちらも調べてみなくては)。

肥前は、窮地に陥ってる政宗の様子を見て、政宗の馬印を借りて、「我が政宗也ー」と敵陣へ突っ込んで行き、討死してしまった。その行動に打たれた政宗は、参勤交代の度に、こちらの山王山に寄り、参拝したという。
それを見た周囲が肥前を仙台仏と称されたとか。
しかしこの戦いも兵的に伊達軍は不利だったのに、結果的に勝って、ホント運の良い殿だったんだなあと再確認(苦笑)。


山王館1山王館3山王館4山王館5山王館7山王館8山王館9山王館10山王館11山王館12山王館13山王館14山王館15山王館16山王館2山王館17山王館18山王館19



政宗本陣(郡山合戦) -現麓山神社

小十郎坦を探した日と同日に探索。郡山合戦はちなみに窪田合戦とも言い、この界隈の久保田はこれが変化して出来た地名。
合戦の本陣は小十郎坦より東へ一キロって感じですかね。地図検索すると、ホントに陣場と出てるし、バス停も有る。
ただし、参道がめっちゃ見つけらない&車で侵入が難しいので、近所のセブンイレブンに自車を停めさせてもらう。こちらの神社は稲荷と麓山の他に政宗の守護神の塩釜神社一柱を合祀し、戦捷の祈願をし、大勝をしたことから、参勤交代の際には必ずこの社を参拝したそうだ。鳥居の前に、参道を作る際に寄付をしてくれた方の御芳名が掘られた石碑が有った。
社が有る敷地は割と広かったが、遺構というよりは、市民の生活の場の匂いが強くて、写真に有るブランコに座って、思わず寛いでしまった。そして陣場集会所の文字にニヤリとする。
ふふ、この場で会議をしたら、その後法螺貝が轟きそうな雰囲気がありますな(苦笑)。


郡山合戦本陣7郡山合戦本陣1郡山合戦本陣2郡山合戦本陣3郡山合戦本陣4郡山合戦本陣5
郡山合戦本陣6



小十郎坦ー郡山合戦陣地

そして、これは一回鹿嶋神社(福原館)を諦め、身近から攻めて行った遺構探しの時の画像。いやあ。まさかねえ、こんな近くに大好きな智将の陣地が有ったとは。ホント車で三分ですよ。ある程度携帯で当たりをつけてって、さあ、探索だーと国道を走り、目指すコンビニで車を停車させる。そして反対側の歩道に渡ると有りました!道標。
・・・これじゃ見つからんわなー・・・、いつから倒れてんだコレ。とうなだれつつ、陣地跡を目指す。セメント会社や、住居の脇を通りながらしばし歩くと、目標発見。あ!あれじゃね!と足が自然に小走りになる。小高い丘の近くに寄ると、同じ匂いのする方から通りすがりに挨拶される。その日はたまたま彼岸の中日だったから、お墓参りも兼ねてるかもしれない。そして、坦は最初平坦の坦かと思ったが、やはり壇が変化したものなのかもしれない。遺構は思ったよりきちんと整えられていた。おおよそ、二十畳強のところに樹木や石碑が立ち並ぶ。昭和31年に掘られた石碑の文字が、長年の風雨に晒されて、かなり下部の辺りが読みにくくなっているが、片倉の文字は確かに確認できる。


小十郎坦1小十郎坦2小十郎坦3小十郎坦4小十郎坦5小十郎坦6小十郎坦7

この界隈は工場や、住宅が点在している位の場所なので、この場所からでもかなり周囲が見渡せた。16世紀末はもっと建物が無かったろうだろうから、山王山(館)の様子も、下手したら高倉城の狼煙とかも見えちゃったりしたのだろうか。と、想いを馳せながら次の地点に移動開始―。






高倉城址(現鹿島神社)

元を正せば、こちらの城址は福原館の神社と勘違いして見つけてしまった場所。薄々ここじゃないよなーと思いつつ、巡ってきて車に戻り再度調べたら、やはり違って愕然としました(笑)。ま、順序が違ったと思うことにしました。しかしこういう遺構の入り口ってほんと判り辛い、駐車場が無い。後で、お寺の駐車場に停まらせて頂けば良いと判ったのは後の祭り。しかたなく、町の健康診断で見知っていた、農業センターの駐車場に置かせて頂き、北上しました。
参ったのは九月二十日前後だったのですが、ちょっと歩くと汗ばむような陽気&人の姿皆無の街道を一人歩くのは少々しんどかったです。

高倉城は築城は不明。畠山満泰の嫡孫、近江守政泰が、伯父との家督争いに敗れ移った城と謂われています。
その後近江守は、高倉畠山氏として、二本松畠山氏とは対立関係を続けながら独立を保っていましたが、田村清興の安積侵攻により、近江守は田村氏の支配下に置かれる。その後田村氏の支配下から離脱。しかし、それにより田村勢から攻撃を受ける。
伊達の二本松攻略の際に、伊達側に加担し、支城として、この高倉城を提供する。その際に、伊達側からは、伊東肥前、富塚近江、桑折治部が入城している。その後の奥州仕置きにより、安積方面は蒲生氏に宛がわれ、氏詮は伊達領に移される。

高倉城址1(現鹿島神社)高倉城址2(現鹿島神社)高倉城址3(現鹿島神社)高倉城址4(現鹿島神社)高倉城址5(現鹿島神社)高倉城址6(現鹿島神社)高倉城址7(現鹿島神社)高倉城址8(現鹿島神社)高倉城址9(現鹿島神社)高倉城址10(現鹿島神社)高倉城址11(現鹿島神社)高倉城址12(現鹿島神社)高倉城址13(現鹿島神社)高倉城址14(現鹿島神社)

私は今回西手の鳥居側から入ったのですが、東手の方から入る入り口もあるそうなんで、再チャレンジしてみたいと思います。










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